昭和三十九年十一月十八日 朝の御理解
信心する者は何事も信心になれよ。信心する者は、木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言う様な心持ちになれよと。
信心させて頂く事は、何事でも信心にならなければいけません。私どもの周囲の一切が、感謝の対象にならないものはない。なら喜びのお礼を申し上げるばっかりである。そういうお礼を申し上げねばならないような事柄やらの中に、私どもお生かしのおかげを頂いておる。それが私、何事にも信心にならせて頂かないとそうしたおかげを、おかげと気付かんのである。ここから頂けて行くところのおかげを、私は本当のおかげと思う。
どうぞこの事をお願します。この事をどうぞと言うて、その事が一言二言成就したからと言うて、私、それを本当のおかげと思われん。本当のおかげというものは、私どもが何事にも信心にならせてもらう。木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言うような心持ちで、日々に生活させてもらう。
今日は、十八日のお月次祭である。本当に、木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言うような心持ちが、一週間なり十日なりの間にたまりたまっておるその思いを、お取り次願ってお祭りに現していくためにはです、お互いが何事も信心にならなければいけません。
信心とはただ神様を拝んで、拝んだと。拝むことは大事ですけれども、その拝む事だけが信心じゃないのです。拝んだと祈るという事は、私どもが不行き届け、ご粗末、ご無礼、お礼を申し上げねばならない事に不平を言うたり、不足を言うたりしておる事を気付かせて頂く。私はいよいよ自分の信心生活を本当なものにしていくものであると私は思う。
だから信心、それは願う事はたくさんありますけれども、同時に自分というもの本当に清めさせてもらう。見極めさせてもらう。それが私は祈りの円要でなくては、神様の前にご祈念をさせて頂いておると、願うことも本当にそれこそ、先日の御理解じゃないですけれども、雲のように広がっていくようにあるのです。願う事も雲のように広がっていくのですけれども、又自分ということの致らなさとか、お詫びを申し上げなければならない事の又多いのも又限りなく広がっていく。いつまでご祈念しておっても、きりがない程にある。
そういう心の状態で、さあーこれからの生活上にもです信心生活にならしてもらう。何事にも信心にならしてもらう。何事にも信心にならして頂くぞという思いを深めるための、私はご祈念だと有難く頂いて帰れば、おかげは船にも車にも積めぬ程の神徳があると、こう仰るそれを氏子が家に帰ったら自分の良いようにしてしまうから、おかげにならんと仰る。有難く聞いて帰らなければいけん。
お商売をさせて頂く人がお願もしながら、神様にお願しながらです、商売のことだけは信心にならない。人が十銭で売るものは、八銭で売れと例えば教えておられるのに、人が十銭のものは十一銭で売ることをおかげと思うておる人がある。信心する者は、何事も信心にならなければいけんのである。商売だけではありません。親に対しても子供に対しても、信心にならなきゃいけん。家内に対しても、主人に対しても信心に。どうなる事が夫婦の間に信心になっていく事ということを分からなければいけん。なるほど親に対する信心がでけていなかった。子供に対する信心もでけていなかった。夫婦の間の上にも信心でなかった事が分からしてもらうから、改まりの生活がでける。
何事にも信心にならせて頂くところから、私は信心する者は、何事、木の切り株に腰をおろしても礼を言わなければならない。所謂感謝の生活。喜びの生活。この方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんと仰る。苦労せんですむおかげが頂かれる。喜びで開けた道であるから、一切が喜びの対象である。
今までは遺恨に思い、情けないと思い、そのために意地になったり、言わばそれに対するところの仕返しを思うたりしておった私達がです、信心の道を分からせて頂いたら、あれも御神意これも神愛の現れである。あれもおかげこれもおかげと分かってくるようになるから、私どもの周囲は有難いものばっかりになってくる。だからいやが上にも有難いなー有難いなーという事が分かってくる。そこに私、稽古がいると思う。
昨夜、長女がお花を入れておりました。小山先生が言うておられました。豊美さん、この頃の花はいよいよほんなものになった。まあー上手になったという事なんです。そりゃ稽古に通うておりますから、少しづつ手が上がっている。生かし方が違う。昨夜のご祈念あそこにつかせて頂いたら、あの花器の一番下の所に、真っ赤に紅葉した葉が一枝出ておった。どうも私が見たところでは、その一枝が美しい葉である。真っ赤に紅葉した枝が下にこう出ておった。真っ赤に紅葉しているから、美しいことは美しいけど、花全体の調和から言うと、それはどうも取った方がいい事であるから、豊美さんありゃ一枝取った方が良い。ありゃどうも邪魔になりゃせんか。それともお父さんが素人が見てからやから、つけておるならつけておってもいいけど、お父さんがこう見たところは、一枝がいいごとあるがと言った。ほんにこりゃ一枝かえた方がいいですばいと言うて取らせて頂いたら、あー成る程これで良くなった。あそこまでには随分枝が切られ葉が取られ位置が替えられ、言わば工夫されてあの花が生け上げられておるのでございます。
私どもの家の中に、私の心の中に、私どもがしておる事の中に、無駄な事がどんなに多いか。それを生け上げられていく稽古をするのである。神様がご覧になってから、あーあの一枝が多いのにと思うておられるところを、私どもがそこを気付かせてもらって切る。あーそれでようなったと神様がこう、私があの花を一枝取ってあーそれで良うなったと思うたようにです、私どもの心の中から言えるのだから、様々な問題の中からです、それを生かしていくところの例えば枝というか骨というかそれを体得していく。この枝は真っ赤に紅葉して美しいから、取るとにはもったいなか。こりゃ青々としてから芽を出てるから、ここを摘んだんじゃおかしかと。そして言うてあったっちゃ一つもいいなーと思わんでしょ。私どものね、心の中にも家の中にも、もう無駄な事が生かされ、生かされるはずのものが生かされていない。ものは一切が生かされて初めていいなーという事になり、おかげ頂いてという有難い心にもなれる。
それが今日、私が申します、何事にも信心になりませんとですそれが分かりません。何事にもならずしてはあーとにかくもうお礼さえ言うときゃ良かけん。金光様ちゃ。この方の道は喜びで開けた道じゃけん。もう何でん喜びで受けていきさえ良かけんで言うたちゃ口だけで、喜びであったり有難いであってはいけんでしょ。心に芯からいいなーと感じ、心から芯から有難いなーと思う。その有難いなーと思うその心がです。信心生活に現れ、お客さんに現れてくるのであり、家内に主人に、親に子に、自分の周り近所の人達の上にもそれが現れてくるというおかげになってこなくちゃ信心ちゃいいもんだなーと、例えば信心のない人達からも見てもらえるようになってこない。あげな気持ちになったら、どんなに楽じゃろうかというような事になってこない。
私どもの心の中からです、それはお花を生け上げていく場合にはちょっと見たらおしいごたる枝も切らなければならない。こりゃ真っ赤に紅葉して美しいからというて、美しいからというてそこに持っていってからというて、その辺だけは美しいかも知れん。真っ赤に紅葉しとるから。けれども花全体としての調和は、調和全体を壊してしまう。それが切り取られる。はあーこれで良うなった。神様がそういう風に見て下さる。これで良うなった。私どもが何事にも信心にならせて頂くから、ならせて頂く稽古をさせて頂くから神様がはあーこれで良うなったというその心が、私どもの心の上にも通うてくる。それがはあーこれで良うなった。これで楽になった。自分の心の中にしこりになって残っておった。あるいはあの人がと例えば自分の事は棚に上げてから、人ばっかり恨みよった。それが分からして頂いた。はあーこれで楽になった。こりを取ることがでけた。人もこりを積む事もなからなければ、積ます事もない。これで良くなったと。そういう私は生活を目指さなければいけない。
そこから私は、この方の道は喜びで開けた道と仰るその喜びというものが、あれにも感謝、これにも喜び、これにもお礼を申し上げなければならないという事柄が、私どもの周囲に一杯あることに気付かせてもらう。何事にも信心にならせて頂いて初めて、あれもお礼を申し上げなければならない事であったと、今まで逆恨み恨んでおったような事はあれはおかげであったと気付かせてもらうのである。それは自分の心の中から取り除くものを取り除かせて頂くから有難い心になってくる。その有難いなーその喜びの心に、尽きる事のないおかげ。喜びで開けた道だからと仰るその喜びで開けた道がだから、喜びでは苦労はさせんという苦労せんで済むところのおかげ。
一切が苦労せんで済む。自分の心の中だけではありません。着物にも不自由しない。食物にも不自由しない。住居の上にも不自由しない。人間関係の上にも不自由、難儀を感じない。そういう生活があるんです。信心させて頂けば、そういう生活に誰でもがなれる。この方のことを生神生神と言うけども、この方ばかりが生神ではない。皆がそのようなおかげが受けられると。生神とは、ここに神が生まれるという事は、私どもが何事にも信心にならせて頂いて神様が、ええなーと言うて下さる時が、私どもの心の中に生神が生まれた時である。生神が生まれた時である。私どもも有難いなー。勿体ないなー。まあー何と有難いことだなー。私の周囲はもう有難いづくめである。お礼を申し上げなければならない事ばっかりの中に、私どもは不平を言い、不足を言い、恨みを言い、痛みを感じ、自然の成り行きに逆ろうて、いよいよおかげの頂けないもう五尺の身体の置場のないような結果にすらなっていくのです。
ためには信心とは、先ず信心させて頂く者は、何事にも信心になれよと。そんならこの様な場合、このような事柄はどう頂いたら、どう受けたり、どう感じることが何事にも信心になる事でしょうという追求が生まれてくる。この場合これを信心で受ける。信心で見る聞くと、どういう風な見方聞き方をしたら信心になることでしょうかということになる。私ども何事にも信心にならせて頂くところに、私ども木の切り株に腰をおろしても立つ時には礼を言う様な心持ちが生まれてくる。その礼を言うような心持ち、そういう状態。神様がえーなーとこう思うて下さる時である。その一枝を取ったら全体が生きてきたという花を眺めて、私がさっき言った様な感じた事になってくるのじゃないか。
こりゃもう、せっかく真っ赤に色づいた。真っ赤に紅葉しとるけん、これを取ったちゃもったいなか。この枝は生き生きと青々としとるから、それでもう形全体を崩してしもうとる。そういうような事が、私どもの生活の言わば周辺に、私どもの周辺に身上に家の上にたくさんあるという事です。信心の追求という事はそういう事だと思う。例えば芸術が美の追求であるならばです、信心は有難いなー有難いなーという心の追求です。ここに一枝、ここんところを言わば取り除かせて頂くと、例えばお花ならお花の一鉢なら一鉢の中に、言うならいよいよ花の美を生かしていくために苦心工夫をするように、私どもがどういう様なあり方にならして頂いたら、有難くなれるであろうか。私がどげな気持ちになったら、どげな信心したらおかげが頂けるじゃろうかじゃいかんです。どういう風なあり方にならして頂いたら、有難うなれるじゃろうか。あの事にもこの事にもお礼の申し上げられるような心が生まれてくるじゃろうかという事に焦点を置くのが信心。
そこで、私どもは静かに静かに神前に額ずかせてもらって、ご祈念どもさせて頂いておる間にはあー、これは多しここの除かないけん。ここを足さなきゃいけんというものがです生まれてくる。ご祈念というものは、そういう効果というものがあると思う。勿論そこに私どもと神様が交流する一つの手立てでも勿論あります。そして例えば、ご祈念を終わらせて頂いた。御理解を頂き終えてから、さあー今日この所に取り組ませて頂くぞと。これを除かせて頂くことに焦点を置くぞと。そこに神様は勇み喜んで下さるのです。その勇んで喜んで下さるということ、それを私どもは生き生きとした喜びだとこういう。有難いと言うときゃ良かけん。有難いと言いよる喜びで開けた道と言いなさるけん。まあー喜ばじゃというような意味も、その枯れた様な死んだようなものではなくてです、それに勇がついとらないけん。生き生きとしたものが、そのそれが神恩報謝の生活になってくる。月に四回、奉仕されるところのお月次祭。そういうような生き生きとした御礼の心、喜びの心というもの結晶されて、お月次祭という御礼のお祭りということになってくる。だからお祭り全体が生き生きなってくるという事になってこなければ、私はいけんと思うですね。
信心する者は、木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言うような心持ちになれよと。そういう心持ちの上に、私はおかげが頂けるおかげをもってしなければ、本当のおかげではないと私は思う。どうぞこの事をお願しますと言って、おかげになったのはそれは大したおかげではないとね。有難いなー勿体ないなーと、木の切り株に腰をおろしても立つ時にはお礼を言うような心持ち。そういう心持ちの上に現れてくるところのおかげ。それを神様はいいなーと思うて下さる。その神様がいいなーと思うて下さる、喜んで下さるその心が、私どもの心に交流してくる。通うてくるね。おかげ頂きました。